澁澤龍彦 あるいは 塩野七生
1年程前に塩野七生の「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」を読みました。塩野七生の「チェーザレ・・・・」は1970年に発行されているので、「遅ればせながら読みました」と言うべきですね。「塩野七生 ルネサンス著作集3」で読んだのですが、この本には、巻末に「メイキング『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』」として、著者自身の執筆当時に回想が付いていました。
この、「メイキング・・・」を読んでいたら、刊行前のエピソードとして、
−それでいよいよ、第二作になる『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』が刊行されるのですが、このタイトルは変わっていますね。
◆・・・(前略)・・・まず私のほうは、『チェーザレ・ボルジア』だけで発表するつもりだった。ところが新潮社側は、このタイトルでは日本の読者に通じない、と言う。・・・(中略)・・・私とてこの現状は認めざるを得なかったので、「優雅なる冷酷」という妥協案を出した。それで新潮社側はOKになりそうだったのですが、私のほうが何となくつまらない。遊びに来た庄司薫に、これでは何となくしっくりこないと言ったら、彼が、サブタイトルにしないでくっつけたら、と言う。「あるいは」をはさんでくっつけるのはサド公爵の作品のまねですよね。
とありました。
私のこのブログの記事のタイトルを時々「・・・あるいは・・・」としているのですが、これは偏愛する澁澤龍彦のエッセイにやはり「・・・あるいは・・・」と言うタイトルの文章があるのを真似ているのですよね。